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Nezami
Nezami ニザーミー
ニザーミー Nezami ニザーミー イラン暦のエスファンド月21日(西暦3月12日)はニザーミー・ギャンジャヴィーの記念日である。 ペルシャ語を母語とするイラン人の詩人・ニザーミーは本名をイルヤース、異名をアブー・ムハンマドといい、ニザーミーと号し、一般に出身地ガンジャにちなんで、ニザーミー・ガンジャヴィーとして知られている。 ヒジュラ暦6世紀(西暦12世紀)の、イランのペルシャ語の詩人であり語り部であるハキーム・ニザーミーは、ペルシャ文学の語り部のスタイルの所有者および先駆者として知られている。 ニザーミー・ギャンジャヴィーの墓は、現在のアゼルバイジャン共和国のギャンジャの西の郊外にある。 ニザーミーは、ペルシャの詩の有能な語り部の一人であり、個別の技法とスタイルを持っているだけでなく、彼の詩的なスタイルと技法がペルシャの後の詩と詩人に与えた影響は明らかである。 ニザーミーは当時の一般的な学問(文学、天文学、哲学、イスラム学、イスラム法学、神学、アラビア語)について幅広い知識を持ち、彼の詩におけるこの特徴ははっきりと知られている。 ニザーミーは、現在のトルコからインド、バングラデシュ、そして中国の新疆ウイグル自治区に至るまで、ペルシャ語が話せられいたすべての国土で高い名声を博している。 彼の父の出生地は、現在のイランのアラーク地域であった。詩の中で、彼は父親をペルシャ系の「デヘガーン」として紹介している。 ペルシャ語で「デヘガーン」とは、農地を所有する地主で、先祖からのイラン人(特にペルシャ人)を意味する。 ニザーミーの生涯に関する資料はきわめて少ない。生年に関しても諸説がるが、現在では1140年~41年が定説となっている。 父はユースフ、母はライーサといい、母はクルド族の出身であった。両人とも早世し、ニザーミーは兄弟ともども孤児となって叔父のもとで成長するが、不幸にしてこの擁護者も間もなく世を去った。 出生地はガンジャがほぼ定説になっているが、イランのクム出身という説もある。ガンジャで生涯を過ごしたことについてはいずれの記録も一致している。当時のガンジャはアター・ベク王朝の一つであるエルディグズ朝の支配下にあって、繁栄を極めた都市であった。彼はこの地を非常に愛し、生涯ほとんどガンジャを離れることはなかったと伝えられている。 詩人がどのような生涯を過ごしたかは不明であるが、当時の頌詩詩人のように、一定の王者に仕えることはせず、もっぱらガンジャにおいて試作に励み、その作品を各地の王者に献上していたようである。彼は神秘主義詩人(スーフィー)ではなかったが、神秘主義の傾向が顕著であったことは作品などからも明白である。彼は中世の学者たちと同じようにあらゆる学問に精通し、ペルシア語、アラビア語は言うまでもなく、ギリシア語、パハラヴィー語にも通じていたようである。彼はまた敬虔・高潔な人柄でも中世以来有名で、詩才と人格の両面において後世ペルシア詩人たちの鑑として仰がれてきた。 ニザーミーは頌詩、抒情詩、四行詩から成る詩集も作詩し、約二万句あったと言われるが、現存しているのは約二千句に過ぎない。しかし彼の名声はこの詩集にあるのではなく、五篇から成る長編叙事詩にあるのは明らかで、五つの作品は一般に「五部作(ハムせ)」または「五宝(パンジ・ガンジ)」と呼ばれている。 ニザーミーはその全ての作品がペルシャ語で著されているため、ペルシャ語が公用語であるイラン、アフガニスタン、タジキスタンにおいて非常に高い名声を博している。特にイラン国内では詩人の作品はよく知られており、また、詩人の出生地であり廟があるアゼルバイジャンにおいても、人気のある詩人である。もちろん他の国々、特にインドにおいても知られている。 ペルシアの言語と文学はインド亜大陸全体に多大な影響を及ぼしており、ニザーミーの詩はインド亜大陸で非常に人気があった。インド亜大陸のペルシア語・ウルドゥー語話者の間での彼の名声を高めたのはおそらく、アミール・ホスロー・デリーである。ニザーミーは、その独特のスピーチと詩の言語によって、次のような多くの詩人に模倣されてきた:アミール・ホスロー・デリー、フワジュ・ケルマニ、ジャーミ、ハテフィ、ガーセミ、ヴァフシ・バフギ、アルフィ・シラジィ、マクタビ、ファイズィ、アシュラフ・マラギ、アーザル・ビグデリ、バドリディン・ヒラリ、ルーミー・ケルマニ、モウラーナー・ナヴィディ・シラズィ、サルマン・サヴァジ。] アミール・ホスロー・デリーは、ニザーミーの『五部作』(ハムサ)を模倣した他の者たちよりも比較的優れている。彼は、彼の詩の中でニザーミーを賞賛の芸術の達人として賞賛している:「言葉の王国の支配者、名高い英雄、学者であり詩人である彼の杯で乾杯。純粋なワインは酔うほど甘美であるが、我々の側の杯には、泥しかない。」 書籍『インドの遺跡におけるペルシア語の碑文』によると、現在のインド大統領官邸ラシュトラパティ・バワンの最も重要なホールであるアショカホールには、天井とホールの一部に、ハーフェズ、ハイヤーム、ニザーミーの美しいペルシアの詩が書かれ、ファトフ・アリー・シャーやシャー・カジャールなどのイラン(ペルシア)の絵画で飾られている。ホール両側にあるニザーミーの大きな油絵とペルシアの女性の大きな絵は、すべての訪問者を魅了している。   『五部作』(ハムサ)は、後の世紀にペルシャとムガルの宮廷で作られた豪華な細密画(ミニアチュール)の写本の人気のある主題であった。1590年代にムガル帝国の皇帝アクバルのために作成された『五部作』(大英図書館、Or.12208)はその一例である。 日本語訳刊本 『七王妃物語(ハフト・パイカル』ニザーミー著、黒柳恒男訳、平凡社、1971年7月。(東洋文庫 191) 『ホスローとシーリーン』ニザーミー著、岡田恵美子訳、平凡社、1977年6月。(東洋文庫 310) 『ライラとマジュヌーン』ニザーミー著、岡田恵美子訳、平凡社、1981年2月。(東洋文庫 394)[1] インド亜大陸におけるニザーミーの詩   出典:ニザーミー 黒柳恒男訳『七王妃物語』平凡社    ニザーミー 岡田恵美子訳『ホスローとシーリーン』平凡社 『インドの遺跡におけるペルシア語の碑文』 https://www.aftabir.com/articles/view/art_culture/literature_verse/c5_1316857075p1.php/تاثیر-زبان-فارسی-بر-زبان-و-ادبیات-شبه-قاره-هند https://web.archive.org/web/20170702222038/http://parssea.org/?p=7458 در ژرفای واژگان دکتر محمد عجم http://hamshahrionline.ir/x5rD https://web.archive.org/web/20170728052200/http://parssea.org/?p=4313 https://web.archive.org/web/20170702233205/http://parssea.org/?cat=6 ارته چرخ سرنوشت  
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