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神の御名において

    富士山からダマーヴァンド山へ

2019年1月

広島と長崎への原爆投下により、東アジアの「日出ずる国」日本は、壊滅的打撃を受けたのではと人々は案じていました。しかし、日本の最高峰・富士山の頂から太陽が照らしはじめ、再び日本の人々に希望をもたらしました

西アジアの国イランで起きたことも傾聴に値するものです。8年間の「押し付けられた戦争(イラン・イラク戦争)」で、毒ガス兵器による攻撃を受けたのです。

しかし、太陽はダマーヴァンド山の頂から現れ、「アーリア人の国」イランに再び、希望の地平が開かれたのです。

富士山からダマーヴァンド山へこんにちは!!

富士山は、世界の中でも最も、写真撮影や描画が行われる山かもしれません。

富士山の麓には、数多くの絢爛豪華な神社仏閣が立ち並んでいます。毎年、何千何万もの日本人が参拝に訪れています。

イランを訪問されると、イランと日本の宗教建築の類似性などを、何百年もの歴史のあるモスクや古代建築で、発見されるでしょう。

 両国の文化的・道徳的類似点、すなわち、おもてなしの心、思いやり、謙虚さ、年長者を敬うこと、家族を大切にすること、精神性のある音楽などは、興味深いものです。

1400年以上の歴史があるイランと日本を結ぶ長い道・シルクロードを経由して、両国民は交流を続けてきました。

著名な音楽家の喜多郎氏(本名:高橋正則)は、縦笛とともに登場し、イランの人々は彼の音楽に魅了されました。シルクロードの心地よい音楽を贈り届けてくれたのです。

喜多郎氏はかつて語りました:『シルクロード』の音楽は、イランの豊かな文化からインスピレーションを受けたものであり、イランの芸術の影響を受けていると。

そうです。芸術、なかんずく音楽は、あらゆる国民の間の共通の言葉であり、国境や地理的な距離を超えるものです。

さて、今から数年前、奈良の平城宮の跡より発見されていた木簡の調査の結果、両国の絆は我々が考えていたより、深いことがわかりました。

イラン人の役人が、奈良の平城宮で、日本の役人に対して、数学を教えていたのです。

当時は、木簡は、様々な記録を残すために用いられていました。

イラン人が日本で仕事をし、生活をすることは、決して不思議なことではないのです。

イラン文明の魅力ゆえでしょうか、各国でイラン学が始まりました。

しかし日本におけるイラン学の始まりは、ヨーロッパ諸国と比べて、遅いものでした

近代に入り、徐々に、研究機関等で研究分野の一つとなっていきました。

研究者たちの強い関心と熱心な努力により、優れた研究業績が蓄積されてきました。

イラン文明・文化の宝物が日本各地の博物館に保管されていることは、日本の研究者たちのイランの歴史と文化への関心を倍増させました。

さらには、日本の国益確保のためにも、イスラム世界への扉として、特に隣国の中国とロシアのムスリムについての理解を深める必要がありました。

数多くの、イスラムや中東世界に関する研究機関が設立されました。

榊亮三郎(さかき・りょうざぶろう)教授は、日本におけるサンスクリット、インド・イラン学の先駆者でした。

彼はイランとインド、中期イラン諸語、中国と日本についての講義を京都大学で行いました。

そして彼の弟子、足利惇氏(あしかが・あつうじ)教授は、日本でのイラン学の基礎を築き、1957年には日本オリエント学会の会長を務めました。

荒木茂(しげる)教授は、1920年にオマル・ハイヤームの四行詩の日本語訳を出版し、1922年には『ペルシヤ文學史考』を著しました。

同書は、ルーダキーからジャーミーに至るまでのペルシア文学の歴史を、日本で初めて紹介した研究書です。

ペルシャ語教育は、イラン学に大きな役割を果たしました。1961年には大阪外国語大学に「ペルシア語学科」が設置されました。

1940年、ペルシャ初代全権公使の笠間杲雄(かさまあきお)氏は、イランの文学や文化に興味を持ち、「日本・イラン文学協会」を設立しました。

時代が下り、2002年には岡田恵美子教授が会長を務める「日本イラン文化交流協会」が、2016年には「東海イラン友好協会」が、そして、2017年には駒野欽一元駐イラン日本大使が会長を務める「日本イラン協会」が、設立されました。

これらの協会の設立目的は、映画や出版物等を通した両国民の友好親善の強化、協力分野の把握、ペルシア語教育機関の設立、ペルシア語ー日本語辞典の編纂と出版、イランからの学者や文化人の招聘、日本の大学生や専門家のイランへの派遣、などにあります。

1957416日、東京にて「イランと日本の間の文化協定」が調印され、その後、同協定は両国の国会にて批准・承認されました。

その後、両国の経済関係は非常に良いものであり、第三諸国が影響を行使できないほどでした。

2013年以降、両国の首脳会談は8回、外相会談は10回行われています。この事実自体が、両国の友好関係の深さと、双方にとっての協力関係の重要性を物語っています。

二国間関係は、順調な時もあれば、そうでない時もありましたが、学術・人的交流、知見や経験の交換、貿易などの協力関係は、途絶えることなく続いてきました。

しかし、常に魅力的なライバル関係であり、人的交流のもう一つの深い絆は、緑のフィールドに関するものです。

スポーツは、両国民の人的交流の重要な分野の一つであります。その中でもサッカーは、両国民が関心を持っている共通のスポーツの筆頭に挙げられます。

そうです。政治、経済、スポーツ、文化、テクノロジーは、人類の発展へ向けて、世界の諸国民を結合するものとして規定されなけければなりません。

90にわたるイランと日本の関係

 友好と協力の歳月、輝かしい未来