17 May 2024
2015/04/27 - 11:18
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PG「ペルシャ湾」の永続性

ペルシャ湾の名称に関する史料、いにしえの永遠の遺産

ペルシャ湾の名称に関する史料、いにしえの永遠の遺産』(: Documents on the Persian Gulf's name)は、2004年にイランで出版されたモハンマド・アジャム博士によって書かれ編集された本・地図帳。第2版は、2009年にピールーズ・モジュタヘドザーデ博士とM.ギャンジ博士の監修の下発行された。この本は、イランで2010年のベスト・ブック賞を受賞する候補として選ばれ、イランの書籍に関する権威によって、「ペルシャ湾問題」関連の、過去50年間のペルシア語書籍のベスト・ブックの中に位置づけられると発表された[1]

「ペルシャ湾」の永続性

毎年、4月30日(あるいは29日)はペルシャ湾の日に当たります。これは、一国の国民の歴史と文明に起源を発するも

のでもあります。

2005年から、アラブ諸国や一部の国際機関が国際関係の原則に違反し、妨害行為を行い、この妨害に人々が大きな抗議を起こしたことを受けて、4月30日をペルシャ湾の日としました。しかし、実際には、ペルシャ湾の日は、イラン国民の歴史に端を発するものだと主張することができます。

ペルシャ湾はオマーン海に続いている水域であり、イラン高原とアラビア半島の間に位置しています。その面積は23万7473平方キロです。また、ハドソン湾、メキシコ湾についで、3番目に大きな湾とみなされています。

ペルシャ湾はホルモズ海峡を経てオマーン湾へ、そしてインド洋につづいており、アルヴァンド川のデルタ地帯に、そし

て、西はチグリス・ユーフラテス川、カールーン川に接しています。

ペルシャ湾に接している国とは、イランのほか、オマーン、イラク、サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦、カタール、バーレーンです。ペルシャ湾の北部沿岸は、政治的にはすべてイランの領土に当たります。ペルシャ湾やその沿岸は石油や天然ガスが豊富に存在するため、この海域は国際的に重要なものとみなされています。

地理の名称に関する国連文書61によりますと、ペルシャ湾という言葉は紀元前にさかのぼるとされています。この名称にはすべての言語や、文学において、パールスやイラン、あるいはアジャムという言葉が使われています。紀元前5世紀以前から、この地域の名称はペルシャ湾とされてきました。実際、ギリシャ人やローマ人、そして東ローマ帝国やアッバース朝の人々、イスラムの地理学者は、このペルシャ湾の名称を常に使ってきました。タバリーやヤアグービー、マスウーディーの歴史書にも、まさにこの名称が使用されています。

ポルトガル人やスペイン人が侵入した後も、彼らの文書には、ペルシャ湾の名称が使われ、イギリス人やフランス人の侵略時代にも、ペルシャ湾と呼ばれており、ソ連、アメリカ、イギリスの百科事典にも、国連の文書にも、ペルシャ湾の名称が常に使われてきました。

紀元前のアケメネス朝時代のダーリウーシュ1世の碑文では、ペルシャ湾における水路の存在が伝えられており、そこでも、やはりペルシア湾にパールサという言葉が使われています。

2世紀のギリシャ人の歴史家アリアノスは、著書『アレクサンドロス東征記』の中で、「ペルシコン・カイタス」という言葉を使っており、これはペルシャ湾という言葉に近いと見られています。

また、1世紀の著名な地理学者ストラボンも、著書の中で、ペルシャ湾を指すためにこの言葉を繰り返し使っています。

2世紀の地理学者プトレマイオスは、ペルシャ湾を「ペルシクス・シヌス」としており、これはまさに、ペルシャ湾に当たります。一部のラテン語文献では、シヌス・ペルシクス、または、マーレ・ペルシクムとされており、これもまさにペルシャ湾を意味します。

現在使われている多くの言語で、ペルシャ湾を意味する単語が導入されているという事実は、触れておく必要があります。日本でもペルシャ湾と呼ばれています。

1世紀のローマ時代の歴史家、キンタス・クルシウス・ルフスも、「アクアルム・ペルシコ」という、ペルシャ湾に当たる言葉を使っています。

イスラム時代の歴史資料や地理資料でも、繰り返し、アラビア語でペルシャの海という言葉が使われています。

このため、この湾の歴史的な名称は、さまざまな言語で、ペルシャ湾、あるいはペルシャの海とされてきました。これにより、すべての国際機関では、この湾の正式名称はペルシャ湾とされています。

国際水路機関も、常に、ペルシャ湾という名称を使っています。

歴史上のさまざまな時代に残された資料や地図を調べてみると、ペルシャ湾がすべての国民や文化に、ペルシャ湾という名称で認識されていたということが明らかになります。しかし、こうした歴史的な根拠にもかかわらず、1960年代からの汎アラブ主義的な思想の広まりとともに、多くのアラブ人のナショナリストは、無思慮な行動により、ペルシャ湾をアラビア湾という名称に変えようとし、このことをアラブ連盟を通じて正式に通達しました。こうした中、イランの地理的な権利を明らかに侵害するこの行動は、どの国際機関によっても正式に認められていません。

国連などの国際機関や専門的な組織は、ペルシャ湾の名称を基本的な、信用性ある名称だとしており、ペルシャ湾の名称変更をまったく受け入れていません。国連事務局とその専門機関のある文書では、少なくとも8回にわたり、ペルシャ湾の名前が使用されています。

国連事務局は1971年3月5日付けの文書において、地図や地理書の中で、長年にわたりペルシャ湾の名称が使用されてきたことを認めています。また、1984年8月10日付けの文書と、1990年1月10日の覚書でも、正式にペルシャ湾だと宣言しています。国連は地理的名称の調整に関して開催される定例会合で、この海域がペルシャ湾であることを強調し、それを認めています。

国連は数回にわたる声明や決議の中で、正式な地図を発表し、ペルシャ湾の名称が公式のものであることを強調するだけでなく、国際的な代表団に対して、正式な文書、特に国連文書では、完全にペルシャ湾の名称を使用するよう要請しています。

一方で、一部のアラブ諸国によるペルシャ湾の名称改変の歴史的な起源とは、どのようなものなのでしょうか。

有識者によれば、このアラブ諸国による間違った呼称は、ペルシャ湾岸諸国がイギリスの委任統治下にあった時代に、イギリスの政府代表をつとめていたロデリック・オーウェンという人物よってはじめて使われたということです。1958年に出版された彼の著作では、次のように記されています。

「私はどの本や地図でも、ペルシャ湾という名前以外目にしたことはない、しかし、数年間、バーレーンにあたるペルシャ湾岸に住むようになってから、ここはアラブ人が住んでいる場所だと気づいた。つまり、アラブ人の海域と呼ぶのが礼儀だ」

アラブ人の組織によるこのような改変を受けて、いくつかの欧米の機関も、あらかじめ計画されたシナリオにより、歴史的な名称の改変をより広い形で続けています。2005年には、アメリカのナショナルジオグラフィック協会が、地図の中でペルシャ湾の名称の脇に誤った名称を挿入しました。

また、2006年には、フランスのルーブル美術館の責任者が、ペルシャ湾の誤った名前を使いました。ナショナルジオグラフィック協会とルーブル美術館はイラン人の愛国者の強い抗議を受け、これによりすぐに謝罪し、修正を加えました。

実際、イラン国民は、イランの土地を力強く守ってきた人々であり、権利の回復、自国の文明の歴史と文化的遺産を支えることにつとめ、すべての違反者に謝罪させてきました。イラン国民は国際機関に書簡を送り、ペルシャ湾の呼称への違

反者に反対する多くの署名をおこなうことで、イランの敵の悪しき計画を失敗に終わらせてきたのです。

出典:モハンマド・アジャム(Ph.D.)著『 ペルシャ湾の名称に関する史料、いにしえの永遠の遺産』

「ペルシャ湾」の永続性 خلیج فارس

ペルシャ湾の名称に関する史料、いにしえの永遠の遺産

「ペルシャ湾」の永続性

毎年、4月30日(あるいは29日)はペルシャ湾の日に当たります。これは、一国の国民の歴史と文明に起源を発するものでもあります。

2005年から、アラブ諸国や一部の国際機関が国際関係の原則に違反し、妨害行為を行い、この妨害に人々が大きな抗議を起こしたことを受けて、4月30日をペルシャ湾の日としました。しかし、実際には、ペルシャ湾の日は、イラン国民の歴史に端を発するものだと主張することができます。

ペルシャ湾はオマーン海に続いている水域であり、イラン高原とアラビア半島の間に位置しています。その面積は23万7473平方キロです。また、ハドソン湾、メキシコ湾についで、3番目に大きな湾とみなされています。

ペルシャ湾はホルモズ海峡を経てオマーン湾へ、そしてインド洋につづいており、アルヴァンド川のデルタ地帯に、そし

て、西はチグリス・ユーフラテス川、カールーン川に接しています。

ペルシャ湾に接している国とは、イランのほか、オマーン、イラク、サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦、カタール、バーレーンです。ペルシャ湾の北部沿岸は、政治的にはすべてイランの領土に当たります。ペルシャ湾やその沿岸は石油や天然ガスが豊富に存在するため、この海域は国際的に重要なものとみなされています。

地理の名称に関する国連文書61によりますと、ペルシャ湾という言葉は紀元前にさかのぼるとされています。この名称にはすべての言語や、文学において、パールスやイラン、あるいはアジャムという言葉が使われています。紀元前5世紀以前から、この地域の名称はペルシャ湾とされてきました。実際、ギリシャ人やローマ人、そして東ローマ帝国やアッバース朝の人々、イスラムの地理学者は、このペルシャ湾の名称を常に使ってきました。タバリーやヤアグービー、マスウーディーの歴史書にも、まさにこの名称が使用されています。

ポルトガル人やスペイン人が侵入した後も、彼らの文書には、ペルシャ湾の名称が使われ、イギリス人やフランス人の侵略時代にも、ペルシャ湾と呼ばれており、ソ連、アメリカ、イギリスの百科事典にも、国連の文書にも、ペルシャ湾の名称が常に使われてきました。

紀元前のアケメネス朝時代のダーリウーシュ1世の碑文では、ペルシャ湾における水路の存在が伝えられており、そこでも、やはりペルシア湾にパールサという言葉が使われています。

2世紀のギリシャ人の歴史家アリアノスは、著書『アレクサンドロス東征記』の中で、「ペルシコン・カイタス」という言葉を使っており、これはペルシャ湾という言葉に近いと見られています。

また、1世紀の著名な地理学者ストラボンも、著書の中で、ペルシャ湾を指すためにこの言葉を繰り返し使っています。

2世紀の地理学者プトレマイオスは、ペルシャ湾を「ペルシクス・シヌス」としており、これはまさに、ペルシャ湾に当たります。一部のラテン語文献では、シヌス・ペルシクス、または、マーレ・ペルシクムとされており、これもまさにペルシャ湾を意味します。

現在使われている多くの言語で、ペルシャ湾を意味する単語が導入されているという事実は、触れておく必要があります。日本でもペルシャ湾と呼ばれています。

1世紀のローマ時代の歴史家、キンタス・クルシウス・ルフスも、「アクアルム・ペルシコ」という、ペルシャ湾に当たる言葉を使っています。

イスラム時代の歴史資料や地理資料でも、繰り返し、アラビア語でペルシャの海という言葉が使われています。

このため、この湾の歴史的な名称は、さまざまな言語で、ペルシャ湾、あるいはペルシャの海とされてきました。これにより、すべての国際機関では、この湾の正式名称はペルシャ湾とされています。

国際水路機関も、常に、ペルシャ湾という名称を使っています。

歴史上のさまざまな時代に残された資料や地図を調べてみると、ペルシャ湾がすべての国民や文化に、ペルシャ湾という名称で認識されていたということが明らかになります。しかし、こうした歴史的な根拠にもかかわらず、1960年代からの汎アラブ主義的な思想の広まりとともに、多くのアラブ人のナショナリストは、無思慮な行動により、ペルシャ湾をアラビア湾という名称に変えようとし、このことをアラブ連盟を通じて正式に通達しました。こうした中、イランの地理的な権利を明らかに侵害するこの行動は、どの国際機関によっても正式に認められていません。

国連などの国際機関や専門的な組織は、ペルシャ湾の名称を基本的な、信用性ある名称だとしており、ペルシャ湾の名称変更をまったく受け入れていません。国連事務局とその専門機関のある文書では、少なくとも8回にわたり、ペルシャ湾の名前が使用されています。

国連事務局は1971年3月5日付けの文書において、地図や地理書の中で、長年にわたりペルシャ湾の名称が使用されてきたことを認めています。また、1984年8月10日付けの文書と、1990年1月10日の覚書でも、正式にペルシャ湾だと宣言しています。国連は地理的名称の調整に関して開催される定例会合で、この海域がペルシャ湾であることを強調し、それを認めています。

国連は数回にわたる声明や決議の中で、正式な地図を発表し、ペルシャ湾の名称が公式のものであることを強調するだけでなく、国際的な代表団に対して、正式な文書、特に国連文書では、完全にペルシャ湾の名称を使用するよう要請しています。

一方で、一部のアラブ諸国によるペルシャ湾の名称改変の歴史的な起源とは、どのようなものなのでしょうか。

有識者によれば、このアラブ諸国による間違った呼称は、ペルシャ湾岸諸国がイギリスの委任統治下にあった時代に、イギリスの政府代表をつとめていたロデリック・オーウェンという人物よってはじめて使われたということです。1958年に出版された彼の著作では、次のように記されています。

「私はどの本や地図でも、ペルシャ湾という名前以外目にしたことはない、しかし、数年間、バーレーンにあたるペルシャ湾岸に住むようになってから、ここはアラブ人が住んでいる場所だと気づいた。つまり、アラブ人の海域と呼ぶのが礼儀だ」

アラブ人の組織によるこのような改変を受けて、いくつかの欧米の機関も、あらかじめ計画されたシナリオにより、歴史的な名称の改変をより広い形で続けています。2004年には、アメリカのナショナルジオグラフィック協会が、地図の中でペルシャ湾の名称の脇に誤った名称を挿入しました。

また、2006年には、フランスのルーブル美術館の責任者が、ペルシャ湾の誤った名前を使いました。ナショナルジオグラフィック協会とルーブル美術館はイラン人の愛国者の強い抗議を受け、これによりすぐに謝罪し、修正を加えました。

実際、イラン国民は、イランの土地を力強く守ってきた人々であり、権利の回復、自国の文明の歴史と文化的遺産を支えることにつとめ、すべての違反者に謝罪させてきました。イラン国民は国際機関に書簡を送り、ペルシャ湾の呼称への違

反者に反対する多くの署名をおこなうことで、イランの敵の悪しき計画を失敗に終わらせてきたのです。

出典:モハンマド・アジャム(Ph.D.)著『 ペルシャ湾の名称に関する史料、いにしえの永遠の遺産』

 

M.Ajam:    https://www.civilica.com/Paper-GEO82-GEO82_74.html

درگذر زمان نام های تاریخی نیز 

ペルシャ湾ナショナルデー

 イラン暦オルディーベヘシュト月10日は、ペルシャ湾ナショナルデーに制定されており、ホルムズ海峡とペルシャ湾からポルトガル人を追放した記念日です。

 アラブ連盟が1964年にアラビア語話者によるペルシャ湾の名称使用を正式に禁止するまで、1958年までは、ペルシャ湾の名称の継続的な使用については、世界のすべての言語で異議を唱える人はいませんでした。その後もイランのマスメディアは、2002年まで沈黙したままでした。ペルシャ湾の名称の擁護が公表されたのは、発行部数の非常に少ない一つのアトラスと2冊の本であり、その範囲は少数の図書館と大学教員の域を超えませんでした。しかし、2002年のペルシャのウェブサイトやブログの出現により、状況が変化し、ペルシャ湾の名前を擁護するブログや研究が発表されはじめました。

 モハンマド・アジャム『ペルシャ湾の名称に関する史料、いにしえの永遠の遺産』によれば、1990年代の初めから、衛星テレビが国内で普及し、文化コミュニティの中の意識の高いグループと、社会的および文化的問題に取り組んでいる人々は、アラビア語と、英語をはじめとするアラビア語以外のニュース番組やメディアが、ペルシャ湾の名称を大幅に歪曲していることに気づき始めました。すべての言語と時代におけるこの名前の一貫した正当性と、歴史的背景を主張するため、歪曲する人々に立ち向かい、またこの古代からの名称を保護することの重要性を伝えるため、この貴重な遺産の支持者は行動を起こしました。また、多数の会議やセミナーで、ペルシャ湾の名前の保護について当局に通知しました。1888年の設立以来常にペルシャ湾の名前を使用してきたナショナルジオグラフィックと呼ばれる世界的に有名なアトラスでペルシャ湾の名前を歪めた後、200411月の新しいバージョンで初めて、ペルシャ湾という国際的な名称に、新しい名称を併記しました。この非学問的な歪曲に対して、国内外の社会的および文化的活動家の間で、怒りと抗議が起こり、同機関に数千の電子メールと抗議の手紙と12人以上のオンライン署名の請願書が送られました。アメリカの著名な機関の所長は、イランの人々に謝罪するとともに、過ちを埋め合わせると約束しました。この勝利は、団結によって、偉大な国のアイデンティティの破壊と改ざんを防ぐために偉業を成し遂げられることを示しました。アラブのマスメディアは、前例のないやり方でコメントなしでニュースを報道しましたが、一部は嘲笑し、一部はこの出来事に敬意を払っていました。

 ペルシャ湾の文化的および精神的遺産を保護するために当時のイラン政府によって取られた措置の一つは、ペルシャ湾ナショナルデーを国の公式カレンダーに追加することでした。イラン政府は国内世論の高まりを受け、イラン暦オルディーベヘシュト月10日を、ペルシャ湾ナショナルデーとして国の記念日に正式に制定しました。

انیمشن نقشه‌ها:....

Anima PERSIAN GULF maps  نام های تاریخی نیز دستخوش حوادث و رویدادهای 

So far, dozens of prominent figures in the Arab world have admitted in separate articles that:

" Until the reign of Abdel Nasser in Egypt, the word 'Arab Gulf' cannot be found in any  Arabic  documents or oral literature, so changing the original and historical name of the Persian Gulf is incorrect."

Among them: Abdul Hadi Al-Tazi, Abdullah Ibn Kran, Abdul Khaliq Al-Jan

شbi, Abdul Moneim Saeed, Abdul Rahman Rashid, Yusuf Al-Qaradawi, Majdi Omar, Saad Ibn Tufla, Ahmad Al-Sarraf, Salah Al Sayer, Al-Mubarak Ibn Abdul Aziz- Ali Hamidan  Nejah M.Ali -Hozan Qaso and 

Excerpts from the Book”:

Documents on the Persian Gulf's name by Dr.Mohammad Ajam  . parssea.org

https://japan.mfa.gov.ir/en/newsview/536033

https://japan.mfa.gov.ir/en/newsview/536034

 https://japan.mfa.gov.ir/en/newsview/536036

ペルシャ湾の名称に関する史料、いにしえの永遠の遺産

本に掲載されている文書のギャラリー[ソースを編集]

この本に掲載されている歴史地図や文書。32 ペルシア湾に関する32の歴史地図. [7] -[8]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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