インドの遺跡におけるペルシア語の碑文
インドの遺跡におけるペルシア語の碑文

..『インドの遺跡におけるペルシア語の碑文 』とは、アリー・アスガル・ヘクマテ・シーラーズィー博士によるペルシア語の書籍で、1906年および1908年に発行された。インドの歴史的遺跡で発見された80を超えるペルシア語の碑文のテキストが掲載されており、その遺跡の多くは現在、 国の遺産として指定されたり、ユネスコの世界遺産に登録されたりしている。 インドの遺跡からの200の碑文を追加し

た最新版がペルシア語で出版され、 英語版も印刷中である。 [1] [2]
本書の第一章は、インドのペルシア語碑文の歴史にあてられており、イスラムの初期の発展まで、およびそれ以降の碑文研究の歴史を説明している。 サーサーン朝のペルシア語の碑文は、アジャンター石窟群、プラケーシン二世の治世に由来する多くの硬貨、チェンナイのセント・トーマス・マウントやサン トメ聖堂といった教会の十字架、バンガロールの聖マリア正教会でみられる。
インドでは、ペルシャ語の碑文は通常、モスクや墓などの建物、または砦、宮殿、門、貯水槽、井戸、庭園、橋などの世俗的な建造物に見られる。 印鑑、花瓶、食器などの特定の持ち運べるものにもまた、しばしば銘が刻まれている。 インドにおけるほとんどのインド・イスラームおよびペルシア語の碑文は、12世紀の最後の10年間、ムハンマド・ゴーリーがデリーを征服し、そこに彼の王朝を確立したときからさかのぼる。 しかし、ハリヤーナー州、グジャラート州、ケララ州では、少数の日付の古い碑文が見つかっている。
インドで見つかったペルシア語、アラビア語、および(近年では)ウルドゥー語の碑文では、最も顕著に示されている王朝は、マムルーク朝、ハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ローディー朝、ムガル朝およびスール朝(中央部において)であり、他の多くの地方王朝の碑文にもみられる。 強力なムガル朝(ホラサニド王朝)が権力を握ったとき、彼らはペルシャ語を、碑文、硬貨、公式の手紙など、多くの学術的および行政的事項の主要言語として使用した。 後期のムガル朝の下では、地方公国の多くが自治体となり、ペルシャ語を公用語として使い続けた。 その後、ウルドゥー語が広く使用されるようになったとき、その存在も碑文に記録された。
この本では、ペルシア語の文字が刻まれている多くの宮殿、砦、墓、モスクについて説明している。
- 赤い城
- ラシュトラパティ・バワン インドのニューデリーにある大統領の官邸である。総敷地面積は約130haあり、国家元首の官邸としては世界最大規模の面積となる。 [4]。
.ラシュトラパティ・バワン公式サイト
アラビア語、ペルシア語、ウルドゥー語の碑文に加えて、2か国さらには3か国語の碑文もある。(例えば、アラビア語に、グジャラート語、ベンガル語、タミル語、マラヤーラム語などの地方言語との組み合わせ、ペルシア語にカンナダ語、テルグ語、オリヤー語、タミル語、グジャラート語、マラティ語などの地域言語の組み合わせ)。 ペルシア語、およびペルシア語とコーランのアラビア語の混合は、サンスクリット語、ヒンディー語、英語、ポルトガル語など、他の多くの言語とともに使用されてきた。 このような碑文の例は、ニューデリーのクトゥブ・ミナール、シカンドラーのアクバル大帝の墓、ベンガルのアディーナモスク、アグラのタージ・マハルなど、多くの場所にある。 さらに、アラビア語とペルシア語の碑文は、クーフィ体、ナスフ体、スルス体、ルクア体、ナスタアリ-ク体といった、アラビア語やペルシア語カリグラフィーのさまざまなスタイルで書かれている。 第 部では、タージ・マハルについての説明、また、政府の指示を含む王室の命令のいくつかの例と、ハイデラバードとデリーの博物館で見つかったペルシア語の図面の複写がある。
タージ・マハルは、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンによって立案され、1656年に竣工した。この巨大なモスクの建設には5000人の労働力と6年以上の歳月を要した。また建設に際して当時の金額で100万ルピーの費用がかかった。シャー・ジャハーンはこの他にもデリー各所やアーグラ、アジュメール、ラホールに主要なモスクを建立している。
ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、アーグラから遷都し、自らの名を冠した新都シャージャハーナーバード (Shahjahanabad)
2007年に、隣接するサリームガル城 (Salimgarh Fort) と併せて「赤い城の建造物群」としてユネスコの世界遺産に登録された。 ラホール門内のチャッタ・チョウクは宮廷の女性たちのためのショッピング街であったといい、現在は土産物屋が並ぶ。
モスクにおけるペルシア語の碑文[ソースを編集]
このデリーのジャーマー・マスジドの間取りはアーグラのジャーマー・マスジドと酷似していると言われている。また、シャー・ジャハーンの息子アウラングゼーブによって1673年にラホールに建設されたバードシャーヒー・マスジドとも深いつながりがある。[5]
モスクシュリーナガル [6]
50年以上忘れられていたこの本の第3版は、モハンマド・アジャム博士によって発行された。 出版社の紹介によれば、この本は、ペルシア語とペルシア文学そして言語学の学生たちに特に強く待たれていた。 新しい版には、多くの碑文の画像と、新しく、5部からなる第7章が含まれている。[7][1]新版は、『インドの世界遺産に登録されているペルシャ語の碑文』という別のタイトルで発行されている。これは、ここで説明されている石碑文の多くが、世界遺産および無形文化遺産として保存および登録されているため。 新版には約120枚の画像が含まれている。[8][9]
第3版にはタージ・マハルについての詳細な説明と写真が掲載されている。タージ・マハルは1632年着工、1653年竣工とされる[10]。謀反を起こした臣下ハーン・ジャハーン・ローディー討伐に付き従っていたムムターズ・マハルが、遠征先のブルハーンプルで[10]産褥病のため、1631年6月7日に死亡した際、遺言のひとつに、後世に残る墓を所望していた[11]。ムターズ・マハルはブルハーンプルのザイナーバードの庭園に葬られ、毎週金曜日にはシャー・ジャハーンが訪れていたという[10]。
この章の第一部には、クトゥブシャヒ王朝の時代にさかのぼる、ハイデラバードの遺跡にあるペルシア語の碑文の抜粋がある。 また、ゴルコンダ砦とアーンドラ・プラデーシュ州のデカン高原からの碑文も含まれている。
第2部では、ベンガルの石碑上のペルシア語碑文の詳細がある。
第3部では、インドのムガル・ペルシア建築を扱う。 インドのペルシア・スタイルの建築と言語の影響は、トゥグルク朝から始まり、さらに、その後の統治王朝はすべて、ペルシャ語と文化が支配する地域である大ホラーサーン地域からきていた。ムガル朝もまた大ホラーサーン由来のため、この本はムガル建築をホラーサーンまたはペルシア様式の建築と表現している。(詳しくはムガル建築の項目参照)
砂岩と大理石で作られたムガル朝の墓は、ペルシアの影響を際立たせている[1] 。この時代の建築業績の中には、アーグラ城塞(1565–74)と城壁に囲まれた都市ファテープル・シークリー(1569–74)、シャー・ジャハーン(1628–58)によってムムターズ・マハル皇妃の墓として建設されたタージ・マハルがある[1]。二重のドーム、凹んだアーチ、白い大理石と公園、対称性と細部に重点が置かれたタージ・マハルには、シャー・ジャハーン時代の建築の重要な要素が数多く含まれている[2]。建物の壁にはコーランの詩が刻まれたが、生物の描写(インドのイスラム以前の芸術的伝統の本質的な部分であった)は、イスラームによって禁止されている.
第4部は、ペルシャ語と、そのヒンディー語、ウルドゥー語、トルコ語などの他の言語への影響について記述されている。[12]
第5部には、政府の指示や王室の命令のいくつかの実例と、ハイデラバードとデリーの博物館で発見されたペルシア語の図面の複写がある。
ペルシア語の碑文のあるインドの遺跡[ソースを編集]
『インドの遺跡におけるペルシア語の碑文』によれば、インドにはペルシア語とコーランの碑文の例が15,000近くあり、そのほとんどがハイデラバード、デリー、アグラ、ラクナウなどの都市で見られる。 ペルシア語の碑文とペルシア書道を含む歴史的なインドの遺跡のリストには、以下のようなものがある。
- タージ・マハル
- The Qutub Minarクトゥブミナール
- Qutb complex クトゥブミナール・コンプレックス
- The Red Fort アーグラ城塞
- Humayun's Tomb フマーユーン廟
- Rashtrapati Bhavan ラシュトラパティ・バワン
- The Lodhi Gardens ローディー・ガーデン
- Purana Quila プラーナ・キラ
- Safdarjung's Tomb サフダル・ジャング廟
- Mehrauli in South Delhi. 南デリーのメヘラウリー
メヘラウリーはクトゥブッディーン・アイバクによって建てられインド・イスラムスタイルとして知られるようになった新しい芸術と建築のスタイルの先駆的なもの。 クトゥブ・コンプレックスに含まれるその他の遺跡にはジャマリカマリモスクと墓、バルバンの墓、クリ・ハーンの墓、メヘラウリー考古学公園のリホン・キ・バオリがあり、更に、隣接した丘の頂上にジャハズ・マハルとアダム・ハーンの墓がある。
その他のペルシア語の碑文のある遺跡;
- ジャーマー・マスジド
- Tughlaqabad トゥグラカバード
- Bedil Dehlavi ビデル・デフラーヴィー
- Amir Khusrow Dehlavi アミール・ホスロー
- Lucknow ラクナウ
- St. James' Church セント・ジェームス・チャーチ
- Bara Imambara バラ イマンバラ
- Buland Darwaza 勝利の扉
- Lahore Fort ラホール城
- Taj Mahal タージ・マハル
- Bibi Ka Maqbara ビービー・カー・マクバラー
- Fatehpur Sikri ファテープル・シークリー
- Moinuddin Chishti ムイーヌッディーン・チシュティー
- Badshahi Masjid バードシャーヒー・モスク
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ペルシア語の碑文のあるインドの遺跡の写真
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アグラ近くのファテープル・シークリーにあるサリーム・チシュティーの墓
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トゥグラカバードの砦にある、ギヤースッディーン・トゥグルクの墓
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フマーユーン廟はデリーで最も有名な史跡のひとつで、建築のデザインはタージ・マハルに似ている。
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